石神井翻訳亭へようこそ

東京は練馬の石神井(しゃくじい)の里に住まいし、翻訳を生業(なりわい)としつつ、残りの人生のありかたを現在模索中の老爺でございます。

よろしければ、シニアのみなさま、しばし足を止めて頂いて、下の猫ちゃんのように、このサイトの中身を覗いてみてくださいませ。そして、「こうかしら、ああかしら」と、いろいろに悪戦苦闘している、わたしの日常を酒の肴に、残された人生の時間をどのように過ごすべきか、わたしと一緒に考えてみませんか?

うつうつとしたコロナ巣ごもりのなか、このサイトが、シニアのみなさんのオンラインによる交流の場のひとつとなることができれば、とても嬉しく思います。

石神井翻訳亭 亭主 拝 

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石神井翻訳亭 亭主のプロフィール/サイトの構成

亭主のプロフィール

60代半ばの老爺でございます。

電機メーカーで海外担当の営業として働いておりましたが、残念ながら、サラリーマンという生き方が、まったく性に合わず、ほとほと嫌になった挙句、45歳の時に退社、フリーランスの翻訳者として独立し、現在に至っております(現在の職業を正確に表現すると、「知的財産を専門とする、英語と韓国語の翻訳に従事している自営業者」ということになりますが、これでは、実際になにをやっているのか、よくわかりませんねえ。ゴメンナサイ)。

従って、現在の生活は、自宅の自分の部屋で、パソコンの画面を前にして、キーボードをパチパチ、パチパチと叩く毎日、ということになります。ただ、最近は、歳に勝てなくて、目がしょぼしょぼして、長い時間、画面とにらめっこするのが苦痛になっており、60歳になって以降は、「仕事をするのは、午前中の4時間だけ」ということにしております。だから、現在は、「半分現役/半分隠居の生活」というわたしです。

 わたしの趣味の生活

 わたしは、好奇心の塊のような人間です。従って、趣味は、過去、さまざまに変化してきましたが、還暦を前にした、5年ほど前のこと、「人生の残された時間においては、自分なりに、美と生死(しょうじ)の解明をやろう」と決意致しました。これをやらずには、人生を終わるわけにはいかないな、と思った次第。従って、現在のわたしの趣味は、「美の解明」と「生死の解明」という、わけのわからないもの2つです。

 (1)美の解明

人類がうみだした「美」なるものは、はたして、どういうものなのか、どの程度のものなのか。「これを自分なりに解釈した上で人生を終えたい」と思い、その勉強の題材として選んだのが、「音楽」と「美術」です。具体的には、「クラシック音楽」と「絵画」の勉強が中心になっています。

 (1-1)クラシック音楽の勉強

バロック時代から数えただけでも、4百年にもなろうか、という長い歴史を有するクラシック音楽をほぼほぼ自分の視野の中にとらえよう、というのが、この勉強のキモなんですが、やたらと時間がかかります。名前が残っている多数の作曲家がその生涯において残した全作品をすべて聞いてやろう、ということで、音源をユーチューブに絞って聞き始めてから、もう長い時間が経過しました。始めた当初は、「この膨大な数の作品群をすべて聞くなんて、人間としてできることなのか?」という疑問がありましたが、できるものですね、やってみれば、なんでも。いまでは、バロックや古典派、そして、ロマン派の大所(おおどころ)の作曲家は、すべて終了しており、現在は、パガニーニとかクライスラーなどの、わりあいと小粒の作曲家の作品を聞いている状態です(ゴメンナサイ==>パガニーニさん、クライスラーさん)。

 「生の音源にも触れなければ」ということで、極力、演奏会にも足を運ぶようにしており、少なくとも月に1回は、出向くようにしています。ご愛嬌として、自分でへたくそなピアノを弾くのも楽しいものです。

 一緒にクラシック音楽のコンサートに行ってくれるひと、いませんか? ==>みなさま

 (1-2)絵画の勉強

西洋画と日本画の歴史の勉強をしています。西洋画については、「印象派」及び「後期印象派」に絞っています。日本画は、安土桃山以降の肉筆画を中心としています(だから、版画である浮世絵は、対象外)。勉強の方法論は、音楽の勉強と同様に、「できるかぎり多数の作品を見る」ということですが、こちらも、音楽と同様に、4百年程度の歴史の厚みがありますから、画集のページをめくるだけでも、時間がやたらにかかります。でもまあ、「石の上にも三年」という言葉があるとおり、それなりの時間を費やして一生懸命にやれば、なんとかなるもので、いまでは、わたしの視野の中に、その全貌がだいたい入ってきたかな、という気がしています(不遜な言い方である ==>自分)。

 ちなみに、自分の好みにあうことが判明した画家は、西洋画では、ゴッホ、日本画では、上村松園や鏑木清方などの美人画が、わたしの好みにあうようです。最近の日本画の絵描きさんの中では、東山魁夷が大好きですね。西洋画、日本画を問わず、展覧会には、できるだけ足を運ぶようにしておりますが、自分でへたくそなマンガのような絵を描くのも楽しいものです。

 一緒に絵の展覧会に行ってくれるひと、いませんか? ==>みなさま

 (2)生死の解明

生きる、とはなにか、死ぬ、とはなにか。これを自分なりに解明した上で死にたい、と思ったのですね。そのためにやったことは、「ユダヤ教/キリスト教/イスラム教という一神教」と「原始仏教から密教までの仏教諸宗派」に伴う宗教哲学の勉強です。

 ちなみに、このテーマの勉強は、現時点においては、とりあえずのところ、ほぼ終了した段階にあるように思います。いまのわたしの死生観は、「禅の哲学」を中心としたものから成り立っており、それなりに安定した状態にあるように思います。無論、これからも、死ぬまで、この勉強自体は、続けていくのですけれど、恐らくは、現在獲得するに至った「死生観」によって死に臨むことになるのだろうと思っています(ありがとう ==>鈴木大拙さん、秋月龍珉さん)

 生きるとはなにか、死ぬとはなにか、について共に語ってくれるひと、いませんか? ==>みなさま

 わたしのボランティアの生活

 自宅の自分の部屋でパソコンの画面とにらっめっこをする毎日(そういうつまらない作業が、残念ながら、わたしの仕事です)から一歩踏み出して、社会との付き合いを少しだけ深めてみようかと思い、一昨年から独居高齢者訪問のボランティアを始めました。役所が行っている「独居高齢者見守り事業」のお手伝い、ということですが、具体的には、「毎週決まった日時に、自分が担当している独り暮らしの高齢者(わたしの場合は、お二人)を訪問し、生活の状態や健康状態を確認した上で、問題があるようであれば、役所(具体的には、管轄の地域包括支援センタ)に連絡して一緒に対策をとる」という活動です。

 わたしが担当させてもらっているひとは、それぞれ、70代と90代の男性ですが、それぞれ、当然のことながら、独り暮らしです。守秘義務があるので、具体的なことは、お話しできませんが、70代の男性のほうは、毎日昼間から酒を飲んでいる、という、ま、ありていに言えば、アルコール中毒患者、ということになるようなひとです。90代の男性のほうは、「約束した時刻に行っても、外出しており、不在である」というような、簡単な約束を守ることも、少々難しそうな、割合といいかげんな性格のひとです。

 最初に、紹介された段階で、そういう状態のお二人を目の前にして、「こりゃいったい、どうなることかしら」と、オッカナビックリ始めたわたしのボランティア活動でありましたが、お二人がいろいろな問題を引き起こすなかで、問題の解決に一緒になって取り組み、解決策を模索する努力を地域包括支援センタのひとたちと共に続けた結果、最近では、「ありがとう」という言葉が、お二人から返ってくるようになっています。「わたしは、なんにもしてないですよ。ただ、話を聞いて支援センタに繋いだだけ。実際にやったのは、支援センタですよ」とわたしが返事をすると、「いや、話を聞いてくれたことがありがたかったんだ。オレひとりだったから、なんにもできなかったと思うもん」という言葉が返ってくるようになったのです。

 わたしは、この経験を通じて、「人間は、やっぱり社会とのつながりを求めているのだな」という思いを強くしました。だれかと話をしたい。これは、人間の根源的な欲望なんでしょうね。生きていく上で、避けては通れない、必須のことなんでしょうね。わたしの担当するお二人は、独り暮らしですから、当然、話し相手がいないわけですが、実は、家族と一緒に暮らしている高齢者のなかにも、話し相手がいないひとたちがたくさんいるのではないかと思います。だれかと話をしたいと思っているひとたちが、この世の中には、たくさんいるのだろうと思うのです。

 そこで、いまわたしが考えているのが、「おしゃべりサロン(仮称)」というボランティア活動を始めることができないか、ということ。月に一回、決まった日時/場所において、わたしを含む傾聴ボランティア数人が待機しておき、雑談をしたいひとたち(主には、高齢者)がその場所を自由に訪れ、雑談を楽しむことができる、というサービスの提供です。

 実は、そのための準備作業として、春に開催予定の「傾聴ボランティア養成講座」に出席する予定にしていたのですが、講座自体が、パンデミックのために夏に延期になってしまいました(主催者によれば、夏に開催できるかどうかも、まだまだ不確かなようです)。困っちゃったな、もうそろそろ許してくださいな ==>新型コロナウイルスさん

 ということで、わたしと一緒に「おしゃべりサロン(仮称)」を立ち上げてやろうというひと、いませんか? ==>みなさま

 わたしの学びの生活

子供のころから語学が好きで、これまでにたくさんの言語の学習をしてきました。そして、昨年の頭に、たまたま、「手話」というものに出会ったときに、新鮮な興味を持つことになりました。「音声を使用しない言語」に初めて遭遇したからです。「これは、面白そうだ」ということで、早速勉強を始めました。そして、愕然としました。自分の考えの至らなさに、泣きたいような気持になりました。

わたし、全然わかっていなかったんです。「耳が聞こえないということ」が、どれほど、人間にとって致命的なことであるのか、を。

人間は、情報のほとんどを目から獲得しています。だから、「目が見えないと大変だろうなあ」とは思っていました。その一方で、耳が聞こえなくても目が見えるのだから、「耳が聞こえなくても、生活する上では、それほどの困難はないのだろうなあ」とも、浅はかなわたしは、思っていたのです。でも、そうじゃなかった。実は、「目が見えない」ことよりも、「耳が聞こえない」ことのほうが、人間の形成の観点においては、はるかに深刻な問題であることに気が付いたのです。というのも、人間を人間たらしめているのは、知性(考える力)の獲得であり、その知性をもたらすものは、なにかと言えば、それは、言語の獲得にあるからです。人間は、考えるときに言語を使用して考えます。そして、その結果、知性なるものが成立するのですが、もし、言語の獲得に困難があるとすれば、どうでしょう? 日本人の場合で言えば、ちゃんとした日本語能力を獲得することなしには、十分な知性を獲得することはできません。そして、知性を獲得することができなければ、人間になることができません。犬猫のレベルに留まることにもなってしまいます(むかし、インドで、幼いころにオオカミにさらわれ、オオカミに育てられた、という姉妹が発見されたことがありますが、彼らは、当然、人間の言語を獲得しておらず、その結果、知性を持つこともできておりませんでした。つまり、育ての親であるオオカミのレベルに留まっていたのです。)

 耳が聞こえなければ、通常は、耳から入るはずの言語が入っていきません。従って、健聴者の場合には、放っておいても(耳を通じて)獲得できるはずの言語というものが、聾者の場合には、獲得することができないのです。そして、言語が獲得できなければ、十分な知性を獲得することができません。つまり、刺激的な表現になって恐縮ですが、「人間になれない」ということにもなります。その意味において、「耳が聞こえない」という障害が内包している、そのあまりの深刻さに、わたしは、はじめて気が付き、且つ、大きなショックを受けたのでした。そして、同時に、この障害に対する、それまでの自分の浅はかな理解の仕方を恥じると共に、その贖罪の意味もかねて、「死ぬまで手話の勉強を続けよう」と心に決めた次第です。

 講座に通ったり、聾者から個人教授を受けたりもしてますが、基本的には、NHKテレビの手話講座を利用して勉強しております。

 わたしと一緒に手話の勉強をしてやろうというひと、いませんか? ==>みなさま

 わたしの運動の生活

 特別に運動をする、という習慣のないわたしですが、「毎日最低1時間は歩く」ということを日課にしています。コースは、主には、「石神井公園コース」と「大泉学園コース」という2つです。前者は、石神井公園を通るものであり、後者は、オズのあたりを通って大泉学園駅に向かうコースです。それぞれ、約1時間を所要しますが、午後の1時~2時の時間帯に歩いています。見かけたら、声をかけてください。いつも、野球帽か中折れ帽をかぶり、たらたらとのんびりと歩いているのが、わたしです(とはいっても、そういうひと、たくさん歩いておりますが)。

 わたしの自宅のそばには、旧日銀の運動場があり、現在は、区立の公園になっております。そこには、テニスコートが8面ぐらいあって、区民が予約して使えるようになっているようで、いつもたくさんのひとたちで賑わっています。「石神井公園コース」を歩くときには、このコートのそばを通ることになるのですが、「ワーワー、キャーキャー」と楽しそうな声を上げる高齢者のみなさんを横目に見て、「ちょっとうらやましいかな」と思っているわたしです。

 区の大会に出たいとか、そういう大それたことを考えるのではなく、ひとびとと交流するためのツールとして、「テニスサークルを立ち上げられたら、楽しいだろうなあ」と考えております。テニスコートの予約は、当然、わたしがやるつもりです(ちなみに、わたしのテニス経験といえば、若いころに、女の子目当てに、苗場のテニスツアーに参加したことがある、というだけでして、事実上、テニス経験ゼロの人間なのですが)。

 テニスの上手なひと、または、テニスの上手なひとを友達に持っており、呼んでこれるよ、というひと、わたしと一緒にテニスサークルを立ち上げませんか? ==>みなさま

 ちなみに、卓球でもいいかな、とも思っています。近所に卓球場が2つあることを確認しました。だから、卓球台は、わたしが確保します。

 卓球の上手なひと、または、卓球の上手なひとを友達に持っており、呼んでこれるよ、というひと、わたしと一緒に卓球サークルを立ち上げませんか? ==>みなさま

 以上、わたしの自己紹介にお付き合い頂き、まことにありがとうございました。つたない長文の読解、さぞ、お疲れのことでしょう。どうぞ、これに懲りず、今後とも、よろしくお願い致します。

それでは、ブログとBBSでお待ちしております。

石神井翻訳亭 亭主 拝

このサイトの構成

このサイトは、(1)現在眺めて頂いているこの「ホームページ」、(2)左側の猫ちゃんの写真をクリックすると飛んでいける「サークル」、(3)中央の猫ちゃんの写真をクリックすると飛んでいける「ブログ」、そして、(4)右側の猫ちゃんの写真をクリックすると飛んでいける「リンク集」という4つの要素から構成されております。

「ホームページ」は、このサイトへの玄関口として機能しており、「オンラインサークル」は、わたしを含めたシニアのみなさんの交流の場になればと考え、設けたものです。ご自由にご利用ください。「ブログ」においては、わたしの日々の暮らし(人生の残り時間のありかたを模索する諸活動)について書き込ませて頂いております。そして、「リンク集」は、読むに値するとわたしが評価したブログサイトを掲示したものです。ブログのご感想やご批判など、書込み頂けたら、必ず、ご返事を差し上げます。

追伸:お声がけは、BBSに書き込んで頂いてもけっこうですし、亭主宛てに直接メールを頂戴してもけっこうです(メールの場合は、このメッセージをクリックしてくださいませ)。

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